先輩の名前は、吉田為之介。
通称、為(ため)さん。
そもそも「吉田為之介」自体、本名ではないのですが、レゲエ界隈ではそう呼ばれていました。
僕が、為さんと知り合ったのは1998年か99年、TOKIWAクルー(Mighty Jam Rockの前身)ホームページの掲示板でした。
当時は、TwitterやFacebookといったSNSは無く、インターネット自体が珍しい時代。「日本のネット人口が1,000万人を超えた。10人に1人はやっている!」と言われいたような黎明期です。そんな頃に、TOKIWAの掲示板でレゲエファンたちが思い思いに交流していたのです。
そんな掲示板で自然と仲の良いグループができ、その仲間内でもっともレゲエに詳しく面白い方が「為さん」でした。
レゲエクルー「RAINBOW ROCKS」(レインボーロックス)
為さんは岩手で暮らしており、僕は当時大阪にいました。そんな遠距離にも関わらず、岩手県・花巻空港から飛行機に乗って、大阪までやってくる「レゲエ馬鹿」っぷりでした。
一番面白かった思い出は、夏、大阪・堺市の港でゲリラ的にやった野外ダンスです。
スピーカーを作れる器用な奴、ターンテーブルを持ってる奴、とにかくレゲエが好きな奴、そんな仲間が集まって「俺らで野外ダンスをやってみよう!」というプロジェクトが立ち上がったのです。当然、為さんもメンバーです。
さらに、スペシャスゲストとして、京都から小島さんことカーティス・フライさんも駆けつけてくれました。「面白そうやん! 俺もいくわ」と(驚き&感謝)。
そしていよいよダンス開始。満を持して音を鳴らし始めたものの、港の漁船で寝ていた船乗りさんから、「うるさい!」と警察にクレームが入り、あっけなく僕たちの計画が終わってしまいました。とはいえ、身内だけのイベントだったので、それはそれで面白かったいい思い出です。
余談ですが、当時僕は25歳くらいだったのですが、為さんは10歳ほど年上で35歳。のちに為さんが40歳を迎えたとき、みんなで「おめでとー!」とメッセージを送ったのですが、僕は心の中で「なかなかのオッサンやなぁ〜」と感じていました。
しかし、そんな僕は現在42歳。40歳の誕生日を迎えたとき、改めて心のなかで「為さんゴメン……」とつぶやきました。全然オッサンちゃうし!笑
そんな為さんは、地元の岩手でRAINBOW ROCKSというレゲエ・サウンド・クルーをやっていました。当時のミックスがネットで聴けるので、ぜひPLAYボタンを押してみてください。珠玉のジャパニーズレゲエが満載です。
RAINBOW ROCKS DUB MIX by Tame-Y on Mixcloud
いつも優しかった為さん
為さんは、僕が大阪時代にもっとも辛かった頃に、スッと心優しい贈り物を送ってくれるような方でした。今でも、そのときのことを思い出すと泣けてきます。
また2006年、為さんは僕が東京へいくことが決まったときも、電話をくれました。「おめでとう!がんばって」と。
そして2014年、僕にはじめての子供が生まれたときも、息子のために可愛いハンコをつくって送ってくれました。
そんな、いつもいつも優しい為さんなんです。
為さんが病気になったとき、病名は伏せていましたが、今闘病中であるというメッセージを送ってくれました。「俺的には気分は完全なポジティブで、家族や周りの人のありがたみを実感しています」なんて書いてあったのですが、その背景から深刻さが伝わってきたので、「大変な病気になってしまったんだろう……」と薄々感じていました。
また、こんなメッセージもいただきました。
from:tame@tame2000
今まで必死に幸せを探していましたが実はずっと幸せだったんだとわかりました。
これに気付けただけでも大きな収穫です。
心配かけてすみません。今後もよろしくお願いします。
亡くなる前日に残した言葉
お名前は伏せますが、為さんが今朝この世を去ったということは、昨日、お見舞いに行ったという方よりお電話をいただき、知りました。
亡くなる前日の為さんは、管につながれて、ベッドから動けない。なんとがギリギリ話せる状態だったそうです。その時に、為さんが語ったのは……
為さんは、がんだったそうです。
抗ガン剤や放射線治療も効かないなかでの闘病生活だったとのこと。Facebookではポジティブに伝えてくれていましたが、常に前向きなのも為さんらしいです。
まだ葬儀などについては詳しく決まっていないそうですが、為さんと交流があったレゲエ好きの好きの皆さんに届けばと思い、急ぎブログに記させてもらいました。
為さん、これまで本当にありがとうございました! 為さんと出会えたことで、今の自分があると思っています。天国にいっても、みんなに優しく、面白おかしく、楽しくやってください。あまりに早い別れでとても寂しいです。